浄徳寺花講について
浄徳寺において、今のスタイルで仏花が立てられ始めたのが、いつ頃からなのか正確には不明です。しかし、我々の先代メンバー(故人)や古老からの口伝えによれば、既に幕末から明治の頃には相当に盛んであったようで、江戸中期くらいまでさかのぼると思われます。過去(特に昭和30年代頃まで)には、花講への入門を志願する方も多かったようで
(お内陣に上がれることや、当時一般の人が触れることのできない仕事に携われることも魅力の一つであったようです)、なかなか入りたくても入れてもらえない組織であったと聞いています。
この地域は古くから典型的な山間農村地帯で、先祖は農業の傍ら山に入って木を伐り、炭焼きをして生計を立てていました。そうした山への日々の行き帰りの中で、適度の曲がった幹や、葉先が揃い葉の細かい枝などの秀逸な自然材料を吟味しながら仏花の材料集めを行っていました。これが我々が先人から伝えられた仏花の基本姿勢 「花は足(脚)で立てよ」 という言葉に現れています。
時代は変わり、山に入る者もほとんど無くなり山林は荒廃しました。かつてはふんだんに手に入った仏花材料のマツやモミなども、いいものは枯れたり、樹高が大きくなりすぎて登れなくなったりして入手は困難になってきました。今では材料の一部をメンバー(講員)が各自栽培して何とか間に合わせていますが、近年のシカやサルにより苗木が食い荒らされ、苦労は絶えません。
このような困難な状況に更に追い打ちをかけるように、後継者の不足があります。この地域では組内21箇寺のほとんどで、かつてはこうした花講が組織されていましたが、後継者が育たずに大部分の寺院では廃止され、造花に頼っているお寺も散見されるような状況になってきました。
浄徳寺花講は、こうした困難な時代の中にあって、「何とか古来からの様式のままに仏前を荘厳したい」、「先人から伝承された技術を次の世代にも伝えて行きたい」と願う門徒の有志によって構成されています。もちろんこうした動きは浄徳寺ご住職や寺族各位の支援により支えられているところも多く、僧俗一体となって、この貴重な工芸技術を守り続けております。
近年は、仏花を再興させたいと願うお寺からの依頼により花立ての指導・アドバイスなどの出講や、報恩講・御遠忌・慶讃法要等の立花の依頼があり、可能な範囲でお手伝いをさせていただいております。 (吉田)
(c) 2014 Hanakou, All Rights Reserved.